TASTE -2-
バレンタインの日、逢えないですよね。
薫にそんなふうに訊かれたのは、先月末、ベッドの中でだった。
俺は先月の半ばから残業続きで、薫とは平日はまったく逢えていなかった。2月もたぶんこの調子だなと何気なく呟いたとき、薫が控えめに言ったのだ。
薫がイベントごとを好み、そういう日は世間の恋人同士のイメージに則って一緒に過ごしたがっているのはクリスマスの件でよくわかった。
だから、俺はそのとき返事にためらった。
『逢えなくはない。だが……』
『セックスがしたいって言ってるわけじゃないんです。チョコを渡したいだけ』
なんだかこちらが罪悪感を覚えるほど健気な言葉だった。
『でも俺はお前の顔を見るとセックスがしたくなる』
『我慢してください』
俺たちは逢えば必ずセックスをしていた。2度目に逢ったときから。
薫は高校生だ。さすがに平日は泊まらせるわけにはいかず、残業で遅くなる日は逢わないというのが一応の取り決めだった。顔を見れば、俺が自制できる自信がないからだ。
薫はあまりに美しく、抵抗しがたい。
『ときどき、恭哉さんは俺のこの顔と身体にしか興味がないんじゃないかと思うときがあります』
薫は思い詰めたようではなく、ごく気軽な調子でそう言ったが、俺もそのことは常日頃から慎重に自分自身に問いかけていた。毎回即座に否定できたが、明確な根拠は自分でもわからない。
『わかった。でもせっかく逢うんなら、食事くらいはしよう』
『俺が作りますよ』
『……いや、外で食べよう』
『部屋に呼ぶとしたくなるから?』
『それもある』
『ほかに何か?』
──そういうわけで、俺たちは今、会社の最寄駅から3駅行ったところにある駅ビルのレストラン街のひとつで、食事をしている。
バレンタインだろうがなんだろうが、平日の、夕食には遅めの時間だ。店内は空いていて、窓際の夜景がいちばん綺麗に見える席に俺たちは案内された。ほどよく照明が絞られ、テーブルの上には本物の花が一本、その隣にキャンドルが灯されている。花はともかくキャンドルは薫が好む演出だ。
別に俺たちがカップルに見られているから夜景と花とキャンドルをあてがわれているわけではないことは、周りを見ればわかった。俺と同じような会社帰りのサラリーマンらしき男性の一人の席にも、女性グループの席にも、男女の席にも、どの席にも花とキャンドルは一つずつ公平に添えられている。夜景はたまたまだろう。
「何食べようか?」
20代半ばくらいの清潔感のあるウェイターの男の子が水とともに持ってきたメニューを薫のほうへ向けて、俺は尋ねた。
コートを脱いだ薫は、赤茶っぽいタートルネックのセーターに黒のジャケットを合わせていた。いつになく大人っぽく、よく似合っている。食事をするので気を遣ってきたのだろう。
薫はぼんやりと夜景を眺めていたが、メニューをちらりと見て、
「この、バレンタインのやつにします」
と、一番最初に載っているメニューを指差した。「バレンタイン期間限定 特製ビーフシチューセット」とあり、細かな内容が括弧書きで記されている。写真はない。俺もそれにすることにした。
薫は大盛り、俺は通常の量で注文し、ウェイターが去ったあと、薫は再び夜景に目を転じた。
横顔にキャンドルのオレンジ色の灯りが揺れている。
「……松永に、ほかになんて言われたんだ?」
薫は今日、ほとんど口を利いていない。普段からしゃべりまくるタイプでもないが、いやに口数が少ないのは、確実にあいつが原因だ。
「たいしたことは何も。ほとんど憶えていません」
「じゃあなんで不機嫌なんだ?」
薫はため息をつくと、顔を正面に向けたが、俺を見ずにキャンドルに視線を落とした。
不機嫌であることを否定はしなかった。
「……松永さんと付き合ってたんですか」
「いや?」
薫がちらっと目を上げ、すぐにまたキャンドルに戻した。
「でも寝てたんですよね」
「まあな」
あいつは高校生に自分や俺の性事情を語って聞かせたのか?
「寝てたのに、なんで付き合っていなかったんですか?」
俺はグラスの水に手を伸ばした。氷が鳴る。一口飲みながら、考えた。
「……お互い、付き合おうとは言わなかったから?」
自分でも不確かなので疑問系で答えていた。
「じゃあ、俺たちも付き合ってないんですか」
俺はまともに薫を見た。
「俺は付き合ってると思ってるが」
はっきりと告げると、薫がようやく、俺と目を合わせてくれた。
「あいつとは友達の延長で寝てただけだよ。今日飲みに行くかっていうのと同じノリで寝てただけ。お前とは違う」
「どこが違うんですか?」
薫が静かに尋ねた。
俺はテーブルの上に少し身を乗り出して腕を組んだ。
「何もかも」
そうとしか答えようがなかった。むろん、薫はまったく納得していない。
前菜が運ばれてきた。透明な器に盛られた、色鮮やかなサラダだった。オリーブが散りばめられている。
ウェイターが充分離れるのを待ってから、俺は続けた。
「あいつに恋愛感情はなかった。初めから。ただ誘われて、寝てた。それだけだ」
「俺にも恋愛感情はなかったでしょう。ただ誘われて、寝てただけ」
俺は驚いた。
「あったよ。初めから」
薫が微かに笑い、首を横に振った。
「ただ俺の顔が好みだっただけでは?」
「顔だけで言えば、さっきの店員さんのほうが俺の好みだよ」
薫が眉をひそめ、店内を見渡した。そのウェイターは今はどこにもいない。
「お前は美しすぎる。出逢い方が違っていたら、俺はなんとも思っていなかったよ。あんな間近で見て、極上に微笑まれて、次の日は食事のお誘い。しかも手料理。恋愛に疎い俺がころっといっても不思議じゃないだろ」
「疎いんですか?」
オリーブのひとつをフォークで刺しながら、俺は頷いた。
「まともに恋愛したことはほとんどない」
本当だ。中学までは恋愛に興味がなかった。高2で彼女ができたが──そう、彼女だ──性欲がわかず、キスが精一杯だった。それにまだ早いとも思っていた。知識もろくに持っていなかった。
向こうも高校生でことに及ぶのは道徳的でないと考えていたおかげで別段問題にはならなかったが、3年生になりクラスが離れ、受験だなんだと主に向こうが忙しくなって別れた。
恋愛らしい恋愛といえばこれだけだ。彼女に対して恋愛感情があったかも怪しいが、少なくとも一般的にデートと言われることはした。「待ち合わせて出かける」ということをした、という意味だが。行き先がもっぱら彼女の意向で図書館で、することといえば学校の課題であっても。
大学生になり、バイト先(ショッピングセンターの食品売り場の品出し)の他大学の同い年の男に、興味はあるかと誘われた。考えてみれば、俺は男に気軽に声をかけられやすいタイプとみえる。
そこでようやく、自分の性的指向および嗜好を認識したのだった。
「その人とも付き合わなかったんですか?」
薫が初めて口を挟んだ。
「ああ、そいつには彼女がいたし」
「バイだったんですか」
「いや、そこまではわからない。特に興味はなかったしな。そいつとも松永と同じ。友達の延長でやってただけ」
薫は黙って、手つかずのサラダを見つめた。
「恭哉さんの恋愛遍歴を聞いて、俺がいちばん気になったことはなんだと思います?」
「俺が意外とモテるってことか?」
「ファーストキスが女の子とだってことです」
「気に障る?」
「とても」
薫がようやくフォークを手にとった。
「ちなみにディープキスは男とだ」
「……それはよかった」
なせが本当によかったと思っているような口調だった。
「俺はお前と寝たすべての男が気に障ってるよ」
どんな男たちだったのか、想像したくもないほどに。
薫は俺を見てちょっと笑うと、ざくざくとサラダを食べ始めた。
「俺と出逢ってから、松永さんと寝るのをやめたんですか?」
「いや、その頃にはそんなに寝なくなってたよ。会社帰りにしょっちゅう会ってはいたけど」
「松永さんは、恭哉さんと付き合ってるつもりだったのでは?」
俺はその指摘に驚き、頭の中で検討してみた。
「……それは……どうだろう……?」
「そんなに寝なくなっていたのは、向こうからしたら、いわゆる安定期では?」
考えても見なかったことだ。
彼が俺に好意を持っていることは薄々わかっていた。友情以上の好意を。でも松永は際どいことは言うものの、それ以上の直接的なことは何も言わなかったので、俺からももちろん何も言わなかった。そんなに気にもしていなかった。
薫はなんだか呆れたように首を振ると、食べ終えたサラダの器を脇に押しやった。
「本当に、恭哉さんは恋愛に疎いんですね」
「だから言ったろ」
「これじゃあ、俺が松永さんから恭哉さんを奪ったようなものじゃないですか。道理で何の面識もないはずなのに恨まれるわけだ」
「恨まれる? あいつはお前を気に入ったようだったぞ」
「そりゃあ、俺は“美青年”ですから」
気のない声で応え、薫はグラスの水を飲んだ。ただの水を飲む姿さえ、その美青年は様になる。
「あいつは恨むような性格はしてないよ。仮に俺と付き合ってると思ってたとしても。恨み節を言ってたんなら、お前をからかってただけだ」
それにあの感じでは、やつは本当に薫を気に入っていた。あわよくば自分も寝てみたいという願望が透けて見えていた。彼はそういうやつだ。
薫が口を開こうとしたとき、例のウェイターが視界の隅に入ってきた。薫も気づいたようで、口を閉じる。
薫はウェイターを見上げ、彼の顔を真顔でじっと見つめた。俺の“好み”の顔を。
「あの、申し訳ありません」
そのウェイターは料理を両手に持ち、俺たちのテーブルで足を止めると、いきなり謝罪の言葉を口にした。
俺を見て、薫を見て──薫のことは二度見し、なぜ自分が必要以上にじっくり見つめられているのか困惑したような表情をしたあと、再び俺に目を向けた。
「ご注文いただいたお料理なんですが……」
「どうかしましたか?」
彼の持っている湯気のたつプレートからは、美味しそうなビーフシチューの香りが漂ってきている。
「おひとりが大盛りで、もうおひとかたは通常ですよね」
「そうです。彼が大盛りです」
俺はまだウェイターの顔を穴の開くほど見つめている薫を手で示した。
「それなんですが……」
ウェイターは言いにくそうに、言葉遣いも微妙に崩れて、右手に持っていたお皿を薫の前にそっと置いた。
やけにおしゃれな盛りつけのビーフシチューだった。真ん中に丸く形作られた黄色いライス、周りのビーフシチューの上には赤いトマトが等間隔で並び、さらにその周囲のお皿の上に花びらが散らされている。
一見したところ謝罪が必要な理由は見当たらない。
ウェイターが続けた。
「大盛りと通常ということで、シェフが勘違いしまして……その、バレンタイン当日ですし、てっきりカップルだと思ったらしく、こちらのほうを……」
なんとも要領の得ないことを言いながら、ウェイターが少し震える手でことんと俺の前にお皿を置いた。
それを見て、俺は思わず吹き出した。
薫も吹き出した。
中央の黄色いライスが、それはそれは見事な、ハート型をしていた。
「大変申し訳ありません。こちらのほうも男性だからと作り直してもらおうと思ったのですが、ビーフシチューは本日はこれで最後で、その……シェフからも申し訳ないと……」
「全然構わないですよ。可愛いですね」
なおも笑いながら、俺は手を振った。
盛りつけが可愛いと言ったふりをして、実のところ、こんなことで恐縮しきっているウェイターの男の子が可愛いと言う意味だったが、むろんそれは胸の内に秘めておく。
薫も今や、けらけら笑っている。朗らかな少年らしい笑い声。久しぶり聞いた気がして、なんだかほっとした。
そしてそんな薫の前で別の男を可愛いと思ってしまった罪滅ぼしに、俺はこう言った。
「どのみち、俺たちはカップルですしね」
「えっ?」
薫とウェイターの声が綺麗に重なった。
「そうだろ?」
悪戯っぽく薫に笑いかけると、薫の顔にゆっくりと同じような笑みが広がった。
「そうですね。──俺のもハート型にしてもらうことはできます?」
薫がウェイターに訊いた。
「え? あの、はい。あ、いえ、どうでしょう。そちらでしたらたぶんできると思いますが、確かめてきます」
ウェイターが慌ただしく薫のお皿を下げ、フロアを足速に通って厨房に戻っていく。
そこで気づいたのだが、どのテーブルの客も驚いたように俺たちを見ていた。おそらく、俺たちが盛大に笑い転げていたところから、こちらに注目していたんだろう。
俺は薫に視線を戻した。
薫も俺を見ていた。すっかり機嫌が戻ったように、嬉しそうに。
「恭哉さんにはいつも驚かされます」
「たぶん、このあともっと驚くよ」
薫が小首を傾げたとき、ウェイターが戻ってきた。
「お待たせいたしました」
彼はすでに落ち着きを取り戻していた。カップルだと言った俺たちを、興味深げにじろじろ見るようなこともしなかった。ひょっとしたら俺たちがからかっているだけだと思ったかもしれない。あるいは、もとからそんなことは気にしないのかもしれない。
薫がにこやかにお礼を言う。
サラダの入っていた空の器を下げ、ウェイターは「ごゆっくりお召し上がりください」と丁寧に言って去っていった。
ライスは完璧な左右対称のハート型に変わっていた。
その周りの分厚い肉のごろっと入ったシチューからは、まだ白い湯気が立っている。
「見事なもんだな」
「本当に。どうやってこんなに綺麗なハート型にするんだろ」
でも俺たちは、すぐさま崩した。
腹が減って減って、仕方がなかったからだ。
薫のことだ、今度ビーフシチューを彼自身が作ってくれるとき、ライスは確実にハート型をしていることだろう。