TASTE -1-

 今年の冬はどうしてこうも寒いんだ。
 俺は会社から出ると、コートの襟を立てて駅までの道を走った。

 すっかり遅くなってしまった。
 約束の時間に遅れることを手短に薫に連絡してはいたが、ここまで遅くなるとは予想外だった。
 俺の会社の最寄駅周辺に時間を潰せる暖かい場所はない。コンビニすらも。
 こんなことならやはり、俺の部屋で待っていてもらう方がよかったかもしれない。

 駅へ続く階段を駆け上がると、右手の奥、自販機の並ぶ前のベンチに、薫の姿があった。
 だが、一人ではなかった。

「薫」

 声をかけると、薫が顔を上げた。
 俺を見て、思いがけないほどの笑顔になる。

「やっと来た」

 その声に待たされたことへの恨みがましさはかけらもなかった。代わりに明らかな安堵が見てとれた。

「悪かったな、随分待ったか?」
「ちょうど30分だな」

 と、薫ではなく、薫の隣にいた男が腕時計を見て、立ち上がりながら答えた。

「松永、なんでお前が薫といるんだよ」

 彼は俺の同期の、他部署のやつだった。同期の中ではいちばん気が合い、よく飲みに行く。いや、行っていた。薫に出会う前は。

「こんな寒い中ぽつんとベンチに座ってる美青年がいたら、温かい飲み物でも奢ってやりたくなるだろ」

 見れば、手袋のはめられた薫の両手の間には缶の飲み物がおさまっている。

「ついでに隣に座って口説きたくもなるだろ」
「相手は未成年だぞ」

 自分のことは棚の遠い遠いところへ上げまくって、素知らぬ顔をして指摘した。
 松永が鼻で笑う。

「クリスマスに続いてバレンタインも高校生と“デート”のやつがよく言うよ」
「妬いてるのか?」
「どっちに?」

 薫が立ち上がって、俺のそばにやってきた。コーンスープの匂いがした。

「付き合ってくれてありがとうございました、松永さん」

 薫は微笑んではいたが、どことなく表情は硬かった。

「どういたしまして。伊坂に飽きたらいつでも俺のとこに来いよ」
「未成年」

 もう一度指摘すると、松永も律儀にもう一度鼻で笑い、片手を上げた。「了解」という意味なのか「知るか」という意味なのか、または単に別れの挨拶代わりなのかは判別しがたい。

「……あいつと連絡先交換したのか?」

 松永が改札を通り、ホームへ上る階段の方へ行って見えなくなってから、俺は薫に尋ねた。

「まさか」

 空き缶をゴミ箱に捨てながら、薫が心外だという声で答えた。

「だって松永さんは俺じゃなくて恭哉さん狙いでしょう」

 なかなか鋭い。

「あいつ、何か言ってたか?」
「いろいろ訊いてきましたよ」
「いろいろとは?」

 俺たちも改札を抜けた。松永とは反対側のホームの階段に向かう。

「本当はどういう仲なんだとか、どこまで進んだんだとか」
「なんて答えた?」
「何のことかわかりませんって答えておきました」

 声こそ穏やかだったが、いつもより少し早口だった。
 さて、どうなだめようか。



 2か月前のクリスマスイブの日、この駅で薫と初めて待ち合わせをした。クリスマスを一緒に過ごしたいと薫に言われ、大の大人がほだされた結果だ。

 薫は制服姿以外では高校生に見えないし、一緒にいるところを会社の人に見られたところで、クリスマスだろうがなんだろうが、どうということはないだろうと思っていた。

 が、甘かった。

 忘れていたわけではなかったが、薫は類い稀なる美貌の持ち主だった。長身と相まってとにかく人目を引く。
 それに、高校生には見えないと言っても、まさか俺と同じ30代に見えるわけでもない。

 一介のそこら辺にいる30代のどうってことない男(俺自身は俺の顔も悪くないと思っているが、客観的な視点も持ち合わせている)が、若いとんでもない「美青年」とわさわざクリスマスイブに待ち合わせ。

 居合わせた会社の同僚たちは当然、俺たちをからかい半分に質問責めにした。
 取引先の麻井さん(同僚ならもちろん麻井さんのことは知っている)の奥さんの弟で、彼はふたりのマンションで暮らしていて、と知り合った経緯を話すと、皆納得したようなしないようなだったが、主に麻井さんの人柄もあってか、ひとまず難を逃れた。麻井さんに感謝だ。特に罪悪感はない。

 翌日のクリスマスも同じように待ち合わせする予定だったが、迷った末、予定通りに決行した。
 この際、開き直って存分にからかわれ、堂々としているに限る。そのほうが余計な詮索を受けず、安全だろうと思ったのだ。

 まったくどこぞの誰かわからない謎の美しい男ではなく、彼は麻井さんの奥さんの弟。非常に細く微妙なつながりだが、会社関係のつながりであれば、美青年だろうが未成年だろうが、俺がつるんでいてもそこまで不思議ではない。交友関係は自由だ。

 いや、不思議にもほどがある。
 と言わんばかりにしつこく疑ってくるのが、松永だった。
 彼はイブではなくクリスマスに駅に居合わせた。というか、会社のエレベーターでばったり会い、そのまま一緒に駅に向かうはめになってしまったのだ。

 そのときから嫌な予感はしていた。
 松永は俺と気が合うだけに、そう簡単には丸め込まれない。駅で俺に駆け寄る制服のブレザー姿の薫を目にした瞬間、きっと俺との関係なんてすぐに見抜いたに違いない。

 2日間とも実に運良く居合わせた同僚たちは、今日も未成年とデートかよ、とちゃんとからかってくれた。
 ある意味で、薫が女の子でないのが幸いしていた。30代の男が女子高校生と並ぶのは危うい。だが男子高校生となると、同性というのが功を奏し、歳の離れた弟みたいな存在、という図式が出来上がってくれる。

 ──イブとクリスマスは姉たちに夫婦ふたりで過ごさせてあげたいから、たまたま知り合って歳の離れた友達になった俺に夜ご飯を奢ってもらう。彼女はいないし、同級生の友達だと割り勘になるから。

 そんな図式だ。
 ちなみに一言も嘘をついていない。

 もちろん、そんなものは会社で唯一俺の性的指向を知る松永には通用しなかった。
 俺たちが一通りからかいの洗礼を受けた後、松永はにやりと笑い、

『それで最近、俺との付き合いが悪かったのか』

 と言った。
 そして同僚たちが去った後、

『で、もうやったのか?』

 とも。

 当然ながら、その質問ははぐらかした。
 いくら親友と言ってもいい間柄でも、これだけは明かすつもりはなかった。弱みを握られる危険は冒せない。俺のためであり、薫のためであり、松永のためでさえある。

 人の弱みなんて握らないほうがいい。手の中にあれば使いたくなるものだ。そして後で悔やみ、自分が傷つく。薫がいい例だ。松永が傷つくような心の持ち主なのかは疑問の余地があるが。



 階段を上りきってホームを歩くと、向かい側のホームに松永の姿が見えた。彼も気づき、こちらに手を振ってくる。
 俺は振り返したが、薫は気づかないふりをして俺の腕を掴み、先を促した。

 このときほど公衆の面前で薫にキスしたいと思ったことはなかった。
 薫は妬いていて、それを隠そうともしない。
 俺は半歩前を歩く薫の精悍な頬の輪郭を見つめながら、思わず微笑んだ。

 本当は、会社の人たちに俺の弟みたいに思われているのが不満だということは知っている。
 本当は、松永に俺たちは恋人同士なんだと言ってやりたいと思っていることも知っている。

 高校生にしては、薫は自制心が相当強い。
 どんなご褒美が相応しいだろうか?

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