30.

「昼休み、どこにいたんだ?」

 洸一がネクタイを緩めながら訊いてきた。
 秋は「おかえりなさい」と言いかけた口のまま、少しためらったあと、「生徒会室」と静かに答えた。
 洸一が目を細め、探るように秋を見つめる。

 それは想定していた質問だった。
 あのあと予鈴が鳴り終わるのとほとんど同時に教室に戻ると、クラスメイトの中谷が秋にどこにいたのか尋ね、生徒会長が教室に来たことを知らせてきたからだ。洸一は──当然──秋に用があったらしいが、秋がいないことを知ると、特に中谷に言付けを頼むことなく立ち去ったという。

「何の用だったの?」

 椅子から立ち上がり、ダイニングテーブルの上に広げていた英語の教科書とプリントを片付けながら、秋は訊いた。話を逸らしたわけではないが、「生徒会室」の話題を先延ばしにしたいのは確かだった。

 洸一は秋に視線を据えたまま、シャツの第一ボタンを外すと、ため息をついた。
 詰まった首元が解放された安堵感からのため息ではないことは秋にも容易に察しがついた。が、ひょっとすると、そうだったのかもしれない。次に口を開いたとき、洸一の口調はどことなく穏やかだったからだ。

「また今日もアキは教室に残って勉強するのか、確かめたかっただけだよ。残るなら一緒に帰るつもりだったし、残らないなら俺は今日も──というか今週ずっと、帰りはいつも遅くなるから、夕飯の準備を半分頼むつもりだった」

 秋はゆっくり頷いた。洸一はテスト週間中はいつも学校に残って勉強するのだと、この前俊斗が言っていた。だから今日も洸一が遅くなることはわかっていたし、理由がなんであれ洸一の帰りが遅いときは秋が夕飯の準備にとりかかっておくのは高校入学以来──同居以来、暗黙の了解のようなものになっていたので、わざわざその用件のために秋の教室を訪れたことは少々不可解だった。
 秋があまり納得していない様子なのを洸一も見て取ったようだが、説明を修正する気も変更する気もつけ加える気もないようだった。

「夕飯の準備ならもうしてあるよ」

 と、秋はコンロの上にある鍋に目をやった。

「ああ、玄関を開けた瞬間にわかったよ。カレーの匂いがした。ありがとう」

 洸一が微笑む。
 不意に向けられた笑顔に心臓が跳ねた。頬が熱くなる。

「す、すぐに食べる? サラダは兄さんが帰ってきてからと思って、まだ用意してないんだけど」
「キサと一緒だったのか?」

 唐突に洸一が話を戻した。
 秋は教科書を無意識にぎゅっと胸に抱え、なんとか洸一の目を見て、頷いた。頬の熱は一瞬にして引いていった。

 洸一が昼休みに教室を訪れたと中谷に聞いたときから、帰宅後にあるだろう“尋問”に備えていた。
 どうしようか、さんざん迷った。
 うまい言い訳も嘘も思い浮かばず、思い浮かんだところでいずれその嘘がばれたときのことを考えると、ありのままを正直に話したほうがいいのではという結論に至った。やましいことはしていないし、自分に非があるわけでもない。なんなら洸一が俊斗に何か言ってくれるかもしれない。そうすればもう、俊斗と昼食を共にせずにすむ。

 秋は今朝俊斗に待ち伏せされたことから、昼を一緒に食べるよう「脅された」ことまで、仔細に説明した。
 洸一は少し首を傾け、秋の目を見返しながら、一言も口を挟まず聞いていた。

「……なるほど」

 秋が話し終えると、しばらく沈黙したのち、洸一が言った。表情は読めなかった。
 
「それで、キサに何かされたか?」

 秋は首を振った。

「何も。ただお昼を食べて、話してただけ」
「何を?」

 ──兄さんのことを。
 すんでのところでその言葉をのみ込む。

「たわいもないこと。俺じゃなくて、あっちが一方的にしゃべってた」

 たわいもないことかはさておき、俊斗がほとんどずっと話していたのは本当だ。
 洸一が少し笑った。

「想像はつく」

 その笑みにやや目を見開きながら、秋は黙って判決を待っていた。
 けれど、洸一も黙って秋の目を見据えているだけで、いくら待っても裁定は下りなかった。洸一自身も決めかねているように。
 沈黙にたえられなくなった頃、秋はおずおずと尋ねた。

「俺、どうすればいい……?」

 それでも洸一は黙っていた。椅子の背に手を置き、考え込んでいるかのように指先で軽く叩いている。
 やがて、ようやく洸一が口を開いた。

「俺にすべて話したとキサに言え」

 それだけだった。
 着替えてくる、と洸一は椅子の背から手を離して自室に向かおうとした。

「そ、それだけ?」

 思わず声に出てしまった。洸一が振り返る。
 それを俊斗に伝えたところで、じゃあ昼休みに会うのをやめようと彼が簡単に引き下がるとは思えなかった。しかも、洸一が俊斗に警告するのではなく、秋の口から俊斗に伝えるように洸一は言っている。これでは、少なくとも今度の金曜日にも昼休みに俊斗と会うことを認めているようなものだ。

「あとはキサ次第だ。俺が“密会”を把握してると知れば、生徒会室でアキに手出しはしないだろう。俺がいつ扉を開けるかわからないんだからな」

 洸一は“密会”という言葉を珍しく冗談とはっきりわかる言い方で口にした。

「でも、一緒に昼を食べるのはいいの……?」
「それくらい、害はないだろう」

 洸一はすでにこの話題に興味を失っているようだった。再び自分の部屋に行きかける。秋はなおも引き止めた。

「でも、あいつは俺を口説くとかなんとか言ってたのに……?」

 洸一はもう一度、辛抱強くといった様子で振り返った。

「実際に口説かれたのか?」

 秋は首を振った。
 
「今日はまだ……。でも自然にやっていくって言ってた」

 洸一が笑い、なるほど、と繰り返した。

「嫌ならアキが断れ。俺にはどうすることもできそうにない」

 洸一にできないことがあるとは信じがたかった。特に俊斗絡みでは。

「断った。でも週二で会う約束をさせられた」
「別に、そんなに嫌な時間でもなかったんだろう?」

 何気なく訊かれ、秋は言葉に詰まった。
 洸一は無感情な目で秋を見ている。

「俺にはさっきから、アキが今後もキサと過ごしたがってるように見える」
「そんなことない」

 否定するのが早すぎたと自分でもわかった。
 秋の反応を面白がっているように、洸一の唇の端がわずかに持ち上がった。

「キサは、友人としてなら気のいいやつだから」

 まるで秋の複雑な心境をフォローするように、洸一が言った。
 洸一は、俊斗が秋を口説こうとしていることなど本当に気にしていないように見えた。今朝俊斗にそう言ったときは、本気でそう思っていたわけではなかった。単に俊斗に言い返すために反射的に口にしたに過ぎない。三日前の金曜日も土日も何もなかったのは、実際は洸一が試験勉強に集中していたためだと思っていた。

 洸一は今度こそ自分の部屋に入っていった。扉が静かに閉まる。
 秋はその扉をしばらく呆然と眺めていたが、自分も隣の自室に向かった。教科書とプリントを入れたクリアファイルとペンケースを机の上に置く。そのとき両手がじっとりと汗ばんでいるのに気づいて、服で拭った。

 球技大会のときは、俊斗とふたりでいたことにあんなに怒っていたのに。
 それに俊斗が挑戦的な発言をしたときだって、快く思っているようにはとても見えなかった。

 なぜ今は気にしていないのか、まったくわからなかった。
 わからないことが不安だった。


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