28.

 四限目が終わったらすぐに教室を出て、どこかひとりで食べられる場所を探そうという目論見は、こういうときに限って長引いた授業のせいで失敗に終わった。

 弁当と水筒を持って急いで教室を出ると、俊斗が白いビニール袋をぶらぶらさせながら廊下をやってくるところだった。
 背を向ける前に目が合ってしまい、俊斗はいかにも親しげにビニール袋を持った手を上げた。

「よう、アキちゃん。考えてみれば生徒会室の場所、アキちゃんは前に一度行ったきりだから憶えてないんじゃないかと思って迎えに来たよ」
「……場所なら憶えてる」

 昼休みに俊斗とふたりでいるところをクラスメイトに見られたくなくて、秋はさっさと先に立って歩いた。

「そりゃ感心。まあ、三人で愉しいコトした場所だしなー」

 俊斗の軽口は無視した。
 俊斗自身、あのとき愉しい思いなんてしていなかったはずだ。
 きっと、誰もしていなかった。

「逃げようとはしなかった? どっかに行ってひとりで食べようとは?」
「そのつもりだったけど授業が長引いた。で、あんたが来た」

 俊斗が笑った。

「正直だなぁ、アキちゃん。でも逃げたら、俺がアキちゃんのクラスのやつにアキちゃんがどこにいるか訊くとは思わなかったのか? 昼を一緒に食べる約束してたんだけどって、わざわざ言って」
「なんで俺に構うんだよ」

 階段に差しかかったところで、秋は立ち止まって俊斗を振り返った。

「俺のことも兄さんのことも、もうほっとけばいいだろ」

 俊斗の顔から、それまで浮かんでいた笑みがすっと引いた。
 俊斗は束の間、ただ秋の顔を眺めていたが、肩をすくめると、先に階段を上り始めた。

「それができたら、こんなことしてない」

 すれ違いざまに聞こえた声は、小さく、無感情だった。



* * *




 俊斗が鍵を開けた生徒会室は、前回初めて訪れたときと、特に変わった様子はなかった。
 部屋の奥、衝立の裏に大量の段ボール箱、扉のすぐ横の隅に古いパソコン、そして空いているスペースに長机が二台。長机の一つは壁際に寄せられている。
 ここであったことは考えまいとした。そのそばから、壁にもたれて佇む洸一の冷たい視線が目の前に浮かびそうになり、秋は頭を軽く振って急いで残像を消し去った。

「どこで食べたい? 好きなところにどうぞ、アキちゃん」

 俊斗にそう言われ、秋はもう一度部屋の中を見回したあと、入って目の前の長机に弁当と水筒を置き、向かい側にあったパイプ椅子を持ってきて座った。扉に背を向ける格好になって心許ないが、扉にいちばん近い場所でもある。何かあったらすぐに出られる場所だ。

 俊斗はそんな秋の考えを読んだかのように小さく笑うと、秋の向かい側に回り、隣にあったパイプ椅子を引き寄せて腰かけた。袋からパンとペットボトルを取り出している。
 真正面ではなく、少しずれて座ってくれたことに多少ほっとした。
 秋は紺色の袋から弁当箱を出すと、蓋を開けた。
 俊斗がコロッケパンの袋を開けながら弁当箱を覗き込んでくる。

「これ、アキちゃんが自分で作ったの? それとも先輩が?」
「……兄さん」

 今日は豚の生姜焼き弁当だった。ツナ入り卵焼き、唐揚げ、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマトが添えられている。

 弁当なら自分で作る、兄さんの分も、と言っても、洸一はもう習慣だからと、入学以来ずっと秋の分も用意してくれる。内容は曜日によって変わるが、秋の好物のツナ入り卵焼きは、好物と言った憶えはないが、毎日欠かさず入っている。

 俊斗は何も言わずにコロッケパンをかじった。聞き返してはこなかったので、答えが聞き取れなかったわけではなさそうだ。
 秋はほうれん草に箸を伸ばした。

 確かに、生徒会室は静かだった。遠くのほうから昼休み特有の、笑い声の交じった明るい喧騒が微かに聞こえてくるくらいだ。これで窓が開いていて、五月の薫風が吹き込んでくればもっと居心地の良い場所になりそうだが、あいにく窓は半分近く段ボールで埋まっている。
 秋はちらっと俊斗を見た。
 俊斗はぼんやりと秋の弁当を見下ろしている。

「……何か話さないの」

 秋が訊くと、俊斗が驚いて顔を上げた。

「静かにしてほしいんじゃないの?」
「あんたが静かにしてるとそれはそれで落ち着かない」

 俊斗は声を立てて笑うと、パイプ椅子の背もたれに背中を預けた。ギシッと椅子が音を立てる。

「さっきアキちゃんに言われたことを考えてたんだよ。もうほっとけばいいって、その通りだよな」

 そう言って俊斗はペットボトルのお茶をあおると、ため息をついた。

「でも、それじゃあ気が済まないんだよ」

 秋は弁当箱の中の赤いミニトマトに、見るとはなしに目をやった。

「……きっかけはなんだったの」
「何のきっかけ?」
「兄さんを好きになったきっかけ」
「ああ……」

 俊斗がパンを食べながら天井を見上げる。その表情からすると、話そうかどうか考えているというよりは、正確に思い出そうとしているようだった。

「中学の頃、先輩とは塾が一緒だったって、前に話したよな?」

 秋は頷いた。

「きっかけはほんの些細なことだよ。他学年の塾生なんて普段は接点はないんだけど、テスト週間中は自習室が毎日自由に使えるから、ほかの曜日や学年の塾生とも会えたんだ。会うって言っても私語禁止だから、部屋ではほとんど話さないけど。――先輩とはある日、席が隣になったんだ」

 俊斗はコロッケパンを食べ終えると、次に焼きそばパンの袋を開けた。

「それぞれ仕切りのついてる席だったから、最初は隣に誰が座ってるかなんて全然気にしてなかった。その日はたまたま家に消しゴムを忘れてさ。自習室にいる先生に言って借りようとしたんだけど、ちょうど席を外してて。まあいいかと思って座ろうとしたら、『どうした?』って隣から声をかけられたんだ」

 俊斗は秋を見て、にやりと笑った。

「声のしたほうを見たとき、びっくりしたよ。やけに……かっこいい顔がこっちを見上げてて」

 俊斗は「かっこいい」という言葉を冗談っぽく強調した。その言葉を遣う上での照れ隠しのように聞こえたが、その気持ちがなんとなくわかったので、秋は特になんの反応も示さなかった。
 俊斗はちょっと首を傾げて秋を見ていたが、そのまま続けた。

「見たことない顔だった。前に見てたら絶対憶えてる。少なくとも曜日違いの人だなってことはわかった。消しゴムを忘れたことを言ったら、すぐに『ああ、待ってろ』って返ってきて。少ししたら仕切りの横からまた顔が覗いて、『これ使って』って消しゴムが差し出されたんだけど、明らかに一つの消しゴムをその場で二つに切ったものだった」
「……はさみで?」
「そう。てっきり消しゴムを二つ持ってて、一つ貸してくれるのかと思ったら……。もちろん、まだ全然使ってない綺麗なほうをくれたし」

 俊斗はお茶で喉を潤した。

「友達ならまだしも、見ず知らずの人がそこまでやってくれることに驚いて。『あの、これ……』って戸惑ってたら、先輩は帰り支度をしながらそんな俺の様子にちょっと笑って、『気にするな。その消しゴムはやるよ。じゃ、頑張って』って言い残して、それはもう漫画かってくらいにスマートに爽やかに帰って行ったよ。俺がまだお礼を言えずにいるうちに」

 その光景は、秋にもなんの苦もなくありありと想像できた。
 出会った頃の洸一の笑顔を思い出す。父親の再婚に複雑な思いを抱いていた秋を気遣う、優しい言葉も。

「大人っぽかったから、てっきり中三の人だと思ってたけど、あとで一つ違いと知ったときはこれまたびっくりしたなぁ」
「……それがきっかけ?」
「そう。ほとんど一目惚れに近いな。まだそのときは憧れみたいな感じで、恋愛感情だとは思ってなかったけど」

 俊斗はペットボトルの蓋を指先でいじっていた。なんとなく秋もその動きを目で追っていた。

「次の日、同じくらいの時間に会えるかなと思って塾のロビーで待ってたら、やっぱり来て、お礼に飲み物を渡したんだ。勉強の合間に飲んでくださいって。消しゴムのことを母さんに話したら、新品の消しゴムを買って返すより、飲み物のほうが向こうも受け取りやすいだろうからって。実際、先輩は驚きつつも喜んで受け取ってくれたよ。その日から自習の前とか後とかに、少しずつ話すようになったんだ」
「……どんなこと話してたの?」
「別に大したことじゃないよ。違う学校ってことがわかったから、お互いの学校のこととか、部活のこととか。父親がいないこととか」

 最後にさりげなく告げられた事実に、秋は驚いて水筒にのばしかけた手を止めた。

「……お父さん、いないの?」
「ああ、俺が小三のときに病気で。先輩もいないって知ったとき、こう言っちゃなんだけど、そこで一気に親近感がわいたな。それまでは俺の周りには、俺の知る限り、片親のやつはいなかったから」

 俊斗が蓋をいじる手を止め、どうしてそれを手に持っているのか、いつから持っていたのか一瞬訝しげに見つめたあと、机の上に戻した。パンのごみを白いビニール袋に入れながら、うかがうように秋を見る。
 その意味が、秋にはすぐにわかった。 
 俊斗は当然、洸一の母親と秋の父親が再婚したことを知っている。だから、秋の母親がいない経緯を聞きたいのだろう。

 でも、秋は黙ったままでいた。この様子だと、洸一は俊斗に秋の母親のことは話してはいないようだった。そもそも、洸一自身も知っているのか、秋にはよくわからない。少なくとも、洸一の父親がいない経緯を、秋は知らない。訊けば自分のことも話さなければならないような気がして、一度も洸一に尋ねようとはしなかったし、洸一も自ら話そうとはしなかった。

 俊斗は、しかし、何も訊いてはこなかった。
 ところでさ、と一段明るい口調になって身を乗り出すと、

「その卵焼き、一個くれない? やけにうまそう。この前先輩の手料理を食いそびれたこと、実はかなり残念だったんだよな」

 秋は少し迷った末、無言で弁当箱を俊斗のほうへ押しやった。


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