7.髪の色

「あれ」

 エレベーターを降りて廊下を曲がろうとしたとき、哲郎が足を止めた。
 デイルームと書かれた部屋のガラスドアの向こうに、斎紋高校の制服を着た三人の男子生徒が見えた。奥のテーブルで紙コップを手にしている。

「クラスの奴らなんだ。さっきまでみんなで優也のところにいて。なんでここにいるんだろ。ちょっと声かけてくるよ」

 そう言って哲郎が中に入っていく。榊がその後ろをついていく様子を見せたので、迷った末、マフラーを首から外して尚也もそれに続いた。
 デイルームは広かった。テーブルのあちこちで入院患者と見舞い客が静かに話をしている。談笑している人たちもいれば、深刻な表情で話し込んでいる人たちもいる。壁にテレビがかかっていたが、画面には何も映っていなかった。

「ただいま」

 哲郎が声をかけると、斎紋の三人が一斉に顔を上げた。

「ああ、てっちゃん。優也、寝ちゃってさ」
「無理させちゃったかも。意外に元気そうだったから、つい俺たちも調子に乗っちゃって」
「今日のところはもう帰ろうかと思って、てっちゃんを待ってたんだ」
「そうか。遅くなって悪かったな」
「いや――あれ? 後ろにいるのは……」

 三人が尚也に気づき、一様にぽかんと口を開けた。
 尚也はかろうじて小さく会釈をした。三人が慌てたように会釈を返す。

「……そっか、双子って言ってたな、そういえば……。一卵性って言ってたか?」
「うん、言ってた。言ってけど……」
「弟は可愛い可愛いって連呼してたからな。優也とは別の顔を想像してたよ」
「俺も」
「そう、こちらが噂の尚也くんだよ」

 哲郎が控えめに笑いながら簡単に紹介し、

「前にも言ったけど、尚也くんは俺たちのクラスでは有名人だから」

 と尚也に向かって説明した。尚也はわずかに頷いた。
 本当は彼らに見舞いのお礼を述べたほうがいいとわかってはいたが、喉が詰まって声が出そうになかった。

 優也のクラスメイトたち。
 斎紋のブレザーの制服に身を包んでいるせいか、皆が皆、真面目で頭がよさそうに見えた。それでいて、優也と同じように親しみも持ち合わせている。
 自分とは違う世界に住む人たち。

 ふと、隣で尚也と同じ学ランを着た榊が、腕時計を見た。それに気づいた哲郎が、「それじゃ、帰るか」と促すと、三人が我に返ったように椅子を引いて立ち上がった。
 一卵性の双子がよっぽど珍しいのか、紙コップを自販機の横のごみ箱に捨てるときでさえ、彼らは尚也にちらちらと目をやっていた。

 デイルームを出たところで斎紋高校の四人と別れ、尚也は榊と連れだって優也の病室に向かった。

「……優也、寝てるのか」

 榊がぽつりと言った。デイルームでは榊も一言も口をきかなかったことに尚也は気づいた。

「疲れやすいみたいで……。日中もすぐに寝ちゃうって、母さんが言ってた。――せっかく一緒に来てくれたのにごめん」
「そんなのいいよ。じゃあ俺も、寝顔だけちらっと見たら帰るかな」

 その言葉に、尚也は内心ほっとした。
 ひとりで優也と対面するのがいまだに怖かった。
 過去の、優也に。


『尚也……?』

 警察からの電話で尚也が病院に駆けつけたとき、優也は物々しい医療機器に囲まれてベッドにいた。
 救急車で運ばれたときは気を失っていたが、病院到着後間もなく、意識を取り戻したという。

 優也はベッドにもたれて医師と話をしていた。それを見たとき、どんなに安堵したことだろう。
 病院に向かっている間は生きた心地がしなかった。全身が氷のように冷たかった。

 地元ではないので聞き慣れないこの総合病院へは、そもそも行き方がわからなかった。携帯電話で最寄りの駅を調べ(優也がいつも降りる駅だった)、そこからはタクシーで向かった。
 ひとりでタクシーに乗るなんて初めての経験だったが――そもそもタクシーに乗ること自体初めてだったかもしれない――、ほとんど何も憶えていない。
 小雨がタクシーの窓を濡らしていたことくらいしか。

 案内してくれた看護師がカーテンを開けたとき、ベッドのすぐそばにいた医師の向こうで、優也の目が尚也をとらえた。

『尚!』

 そう言って、優也はすぐに笑顔になると思っていた。
 けれど、違った。

『尚也……?』

 優也は尚也の名前を省略せずに呟き、しかも、尚也を見て驚いたようにその目を見開いた。
 そして、茫然としたように言ったのだ。

『髪、いつ戻したの……?』

 意味が、まったくわからなかった。
 最初は「髪」を「紙」のこととさえ思った。紙、いつ戻したの。

『……何言ってるんだ? 何の紙?』

 優也は答えなかった。というより、聞いていなかった。半ば口を開け、尚也の顔を、そして身体を、まじまじと見ていた。
 そこで思い当たった。同時にぞっとした。心底。

『……この髪のことを……言ってるのか……?』

 尚也は震える指で、自分の頭を指した。
 優也は困惑したように、ゆっくり頷いた。



 優也のいる病室の前で、尚也は立ち止まった。
 目を閉じて、深呼吸をする。
 これは毎回、優也の病室に入る前に行なう儀式のようなものだ。なるべく平静でいるための。
 ノックをせずに扉を開け、中に入る。

 病室は夕暮れの薄闇に包まれていた。
 窓辺に見慣れないフラワーアレンジメントが置かれている。

 優也はベッドに横たわって目を閉じていた。確かに眠っているようだ。
 静かすぎて、寝息さえ聞こえてこない。

 急に不安に駆られ、尚也は急いで優也に近寄った。ベッドの柵を握りしめて、寝顔を見下ろす。優也はわずかに眉を寄せている。
 じっと見つめていると、布団に覆われた胸が、ゆっくりと上下しているのがわかった。微かな、規則正しい寝息も聞こえてくる。
 尚也は詰めていた息を吐き出した。
 榊がそばに来て、尚也の肩にぽんと手を置いた。

「もう少し、一緒にいようか?」

 榊が訊いた。尚也は考えたあと、首を横に振った。

「大丈夫。ありがとう」

 尚也は壁際にあったパイプ椅子をベッドのほうへ持ってきて、鞄を抱えて座った。

「じゃあまた明日、学校でな」

 尚也が頷くと、榊が静かに病室をあとにした。
 扉が閉まる微かな音がしてから、尚也はためらいがちに布団の中に手を潜り込ませた。
 布団の中は温かく、すぐに見つかった優也の手は、さらに温かかった。
 尚也はそっと、その手を握った。優也の表情に変化は見られず、目を覚ます気配はない。
 優也の手を握ったまま、尚也はしばらくその寝顔を眺めていた。

[2021.03.21]
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