TIGHTROPE -1-

 人生は綱渡りのようだ、とどこかで聞いたことがあるが、俺も最近よくそう思うようになった。

 17歳。
 大の大人が──それも大手とは言わないが、それなりに名の知れた企業に勤める社会人が、そんな眩しい年齢の男子高校生に手を出しているのだ。
 これを綱渡りと言わずして、なんと言う?

 大体、今の高校生は進みすぎだ。ガキのくせして、やたら詳しい。俺が高校生の頃なんて、手を繋いてキスするのが精一杯だったというのに。

「恭哉さん」

 彼のことを考えていたせいだろうか。当人の声が聞こえた気がした。
 でも、それは気のせいでもなんでもなかった。
 煙草を吸いながら助手席のほうを見ると、窓枠に腕をかけて、人懐っこい笑顔がこちらを覗き込んでいた。

「薫」

 俺は倒していたシートから身体を起こした。

「びっくりした」
「俺もですよ。なんか見覚えある車があるなぁって思ったら、本当に恭哉さんがいるんだもん」

 薫は勝手にドアを開けると、その長身の身体を助手席に滑り込ませた。白い半袖のシャツに、紺色のスラックス。シャツはしまわずに、外に出している。

「こら、仕事中だ」
「公園で車を停めて、煙草を吸うことが?」
「営業の帰りなんだよ」
「ネクタイ締めてる恭哉さん、初めて見た気がする。これ、あのときの?」

 薫が俺のネクタイを指ですくい、先のほうまで滑らせた。

「制服着てるお前も初めて見たよ」
「感想は?」

 ネクタイから離れた薫の手が、俺の腿の上に置かれた。
 俺はシートを戻して座り直すと、煙草を備えつけの灰皿に揉み消し、彼の首の後ろに手をやって引き寄せた。





 会社の後輩と取引先相手数人で飲みに行った帰り、そのうちの一人に家に来て飲み直さないかと誘われた。商談中、同い年で同郷ということを知り、意気投合した麻井という男だった。彼は結婚していて、奥さんと、その弟と一緒に暮らしていた。

『高校がね、そこから近いんですよ』

 奥さんの弟が二人のマンションにいる理由を、麻井さんはタクシーの中でそう話していた。
 彼の奥さんはかなりの美人だった。にこやかにつまみと冷えた日本酒を居間のローテーブルに置くと、すぐに隣の部屋に引き上げた。綺麗な奥さんですね、と素直な感想を述べると、麻井さんは「俺と結婚しくれたのが奇跡ですよ」と照れ笑いを浮かべた。

 薫と会ったのは、その夜、そろそろ暇乞いしようと腰を浮かせたときだった。
 ただいま、と玄関のほうから声がして、すらりと背の高い男が現れた。

 俺はしばらく、その場を動けずにいた。
 薫の恐ろしく整った顔立ちや、白い大きめのTシャツがよく似合う日に焼けた滑らかな肌、肩にかけたビニール製の鞄の帯を握る腕から目が離せなかったのだ。
 前腕部から手の甲にかけて走る静脈が美しい。ジャージの下に隠されている両脚が気になって仕方がなかったが、きっと腓腹筋も綺麗な形をしているに違いないと思っていた。そしてそれは当たっていた。

 俺がどのくらい薫を凝視していたのかわからないが、その間、薫も俺から目を離そうとしなかったので、俺達は随分長いこと見つめ合っていたことになる。
 先に相手から目を逸らしたのは俺だった。薫の義兄が俺の肩に手を置き、酒くさい息を混じえて薫を紹介したからだ。
 

 ──彼の家にネクタイを忘れたのは、決してわざとではなかった。
 俺も酔っていたし、薫の毒でも秘めていそうな美しさに茫然となっていたのだ。
 

 紹介されたとき、薫は微笑した。
 男も女も関係なく、すべての人の心を惑わせ、虜にしてしまうような笑みで、その効力を本人も明らかに自覚しているようだった。





 長いキスの間、その悪魔のような美貌の持ち主は、俺の腿に置いていた手をゆっくりと移動させていた。撫でるような動きで俺の脚のつけ根をさすり、手のひら全体で微かに握る。その手が目的の場所へ到達する前に、俺は薫の腕を掴んだ。

「今はだめだ」

 キスを中断し、薫が不満げに口を開く前に、俺は言った。

「キスしてきたの、恭哉さんですよ」
「お前が誘惑するからだろ」
「今夜、逢える?」

 俺は腕時計を確認した。
 車のエンジンをかけ、シートベルトを締める。

「残業次第だな」
「逢えないなら、浮気してきますよ」
「俺が本命だったとは嬉しいね」

 薫が俺の腕に両手を添えた。

「恭哉さん」

 ねだるような声だったが、誘いをかけるような響きもあった。
 俺は彼の腕に浮き出ている太くて美しい血管を指で辿り、唇を這わせたい衝動を抑えて、車のキーからマンションの鍵を外し、彼に渡した。
 薫の顔が瞬時に輝く。俺の前で子供っぽい振る舞いをするのはわざとなのか、いまだに確信が持てない。
 薫が車を降り、窓枠に手を置いた。

「じゃ、またあとで」
「ああ」

 柔らかな木漏れ日の中を、薫が歩いていく。
 滴るような緑の木々と、真っ白なシャツのコントラストが眩しい。

 反対方向から来たベビーカーを押した若い女性が、薫の顔に釘付けになっている。
 そのあとにやってきた、俺と同じようなサラリーマン風の男も薫を見て、少し口を開けて歩を緩めた。遠目からでも、薫の横顔が男に笑みを向けるのがわかった。
 男はすぐに我に返ったように薫から目を逸らすと、明らかに動揺した様子で短めの髪を掻き上げ、駆け出すように足を速めてベビーカーの女性を追い抜いた。

 ふと、薫が振り向いて俺に手を上げた。俺がずっと見ていたことを、初めから気づいていたかのように無邪気に笑っている。
 例の男が、戸惑ったように口元に手をあて、足早に俺の車の前を通り過ぎていく。

 俺も軽く手を上げて薫に応えてから、助手席の窓を閉め、運転席側も半分だけ閉めた。
 ネクタイをほどき、助手席に放る。

 何の変哲もない、青の縞のネクタイ。
 薫が、このネクタイを憶えていたとは驚きだった。

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